「生まれ日の神秘・四柱推命学」
 
高木乗(清水橘村)との出会いに始まる

   五行とは何か


 さまざまな経緯から、京都を捨て、明治大学2回生の友人の下宿へ転がり込んで 

7日後、新宿・角筈2丁目、今の靖国通り・歌舞伎町2丁目、ドンキホーテの隣、K

マートは日本相互銀行の軒下を無断で借りて、にわか易者を開業した。街の本屋や

古書店の棚から拾い読みしただけの知識だから当たるはずがない。そこは開き直って

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」大道商売は、しゃべれば、いくらかの見料を客は払

にはすまされなくなる。昭和28年5月。西暦でいえば1953年、20歳の時である。

 易者を、今は知らぬ。当時「ロクマさん」と呼んでいた。ロクマとは「六魔」と書く。そ

のいわれは、「胡麻の蠅(スリ・泥棒)は手でするが易者は口でする」胡麻を五摩とし

てそれよりももう一つタチが悪いという事だろう。

 要領良くもっともらしく夕方から、銀行下で運勢鑑定・「手相・人相・人事諸般」の

看板をかかげていたある日、客が、四柱推命が占いでは一番当たると言った。

 その翌日から、私は,手頃な値段の新刊や古書を求めて、読んだ。生年月日を計

算する方法は共通しているので、干支の暦を見ながら計算出来るが、その解説につ

いては意味不明,抽象的で全く意味不明、今でも「恐ろしいほど当たる」とか「的中率

100パーセント」とかタイトルしている本が書店に並べられているが,私にいわせれば、す

べて「恐ろしいほど曖昧な」本ばかりであった。
 
 当時,私は東急池上線・荏原中延の民家の変形四畳の部屋を借りていた。ある日

 隣の駅,戸越銀座の駅前、間口一間の古本屋で雑然と並んでいた古書の中から、

「生まれ日の神秘・四柱推命学」と題した、表紙はなく、赤いハードカバーがやや崩れ

た古書を発見した。末尾のページを見ると、昭和26年・改装第2版,定価250円,鉛

筆書きで180円と売価が記してあった。 
 
  最初の何ページかめくってみて、これだと思った。古書代を払うのももどかしく、近くの

喫茶店で、前編の項目「四柱推命術と私」3ページから24ページを読んだとき、私は

生年月日時が立体的に構成され,高木乗の示す,四柱推命の方向性がおぼろげなが

ら理解された。 その5ページに17歳で亡くなった長男の命式を次のように表している。

           明治36年3月3日午後7時生

            比肩   癸卯年  帝旺  天廚人

            傷官   甲寅月  建録  金與禄 深水流霞

          (甲傷官)  癸巳日  建禄

            食神   乙卯時 (長生)建禄  天徳合

 ここで多くの推命家は干星・十二運星の間違いを指摘するが、間違いはなく、なぜ、

生月の寅を、月の干・甲から見て建禄としたか、生時の卯を乙から見て建禄としたか

生日,癸から巳を見れば胎であるにも拘わらず、戊からみる建禄としたか。そこに初代・

高木乗の複眼的な思考を読むことが出来る。

 私の見解を附記すれば、長男の亡くなったのは、大正8年(1919)己未の年である。

冬とすれば、高熱を発して医師の投薬を受け、しばらくは病状も収まったが、その後再発

医師往診の甲斐もなくすべては手遅れでであった。

 これは、己未の年、冬・子の月、季節における五行の旺壮図からの推理である。医師

の誤診、病状をただの風邪とみたか、肺炎が死因ではないかと私はみている。

 「生まれ日の神秘」を手にして1ヶ月、初代の門を叩いた。住所は、大田区田園調布

1−9。池上線、荏原中延から5つ目、雪が谷大塚下車、歩いて5分。昭和29年の秋

である。

「先生の本を読んで、四柱推命が分かりました」と言うと

「ああ、あの本はよく売れてね」

と彼はおだやかに答えた。

「長男の生日は命式から言えば6日の間違いではないですか」と尋ねると

「間違いは間違いで良いんだよ」

 言外に、間違いの分かる人は自分で訂正すれば良い。著者の意図が理解されたら

それで良し。昭和6年、春秋社から、運命学全集の第10巻として発行、以後出版を変

え、昭,和40年、絶版になるまで一切の訂正・修正を加えなかった。

 その日以後、月に一度、昭和36年、父の妹である叔母の要請を受けて京都へ帰

るまで、田園調布を訪ねた。彼との会話は、ほとんど雑談に近く、文学や言語学等

の話を楽しんだ。

 彼、本名、清水孝教は、旧暦明治12年3月29日、夜10時過ぎに、生まれている。こ

れを新暦の5月19日の生まれとして公表しているものを見かけるが、旧暦明治12年は閏

年であり、3月は、正3月と閏3月の2つがある。新暦の5月19日としたの閏月からの変換

彼は年譜に、明治」12年4月20日夜10時生まれと自ら記している。祖父は京都二条城

の武芸師範。父・孝義は茨城県の県辞令、後土地の開拓者となり、彼の6歳頃か、ペン

ネームとする茨城県橘村に移った。父・孝義との死別は明治28年・乙未。干支から言え

ば、病に倒れるとなる。その年、彼・清水孝教は9歳年上の当時先進的な文学者・巌谷

波に俳句・詩の才能を見いだされ、以後、島崎藤村、石川啄木、横瀬夜雨等、文人とし

ての交流と活躍が始まった。その後、東京日々新聞等の主筆にもなっている。また22歳に

して、詩集「野人」「筑波紫」を出版した。

  私と清水孝教・高木乗とは55の年齢差がある。彼はすでに巷間、追従を許さぬ、占術

家であり、駆け出しの大道易者の太刀打ち出来る相手ではない。易とか推命の話を外して

文学や日本語学・歴史の話題がはずんだだが、話の根底・深層の意識の中には運命学

共通する、運命予知の占術のあることを忘れてはならない。

 ある日のことである。これは「入門講座」テキストの末尾に私は書いている。突然

「先生、比肩や劫財、衰病といったって要は五行じゃないですか」

と、問いかけると、高木乗は大きくうなずいて

「そうだよ君、五行だよ、五行だけなんだよ。君それをだれも分かってくれないんだよ」

と、一際声を大きくした。


入門テキスト